書店員の個人主張
自称・超紳士大学生が独断と偏見だけで書評を書き下ろす、執事的書評ブログ。
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読録第8回 「現代の預言者 小室直樹の学問と思想」 小室直樹 著
 3月の中頃以来の更新になります。この頃は新書ブームが到来し、相変わらず衝動買いをしております。そんな中、私は海外実習と言う講義を採ることになりヨーロッパに関する知識をつけなければならない状況にあります。そのため、最近購入する本は主にヨーロッパの経済や統合をテーマにしたものばかりです。残念ながら、今回は別のテーマの本を紹介します(読みっぱなしで書評を書いてないと言う非常事態に見舞われているので…)。


 今回取り上げますテーマは、ズバリ「小室直樹」。以前にも小室直樹氏の書籍の書評を載せました。そこで氏は「私の人生の師」とまで書いておきました。そんな私が尊敬する師をテーマにした本を出版されていると最近になり知り、入手して読んだ次第であります。
 その本こそ、本日ご紹介しする『現代の預言者 小室直樹の学問と思想』である。著者は(小室ゼミの生徒であった)副島隆彦氏と橋爪大三郎氏による共著となっており、この2人の対談形式で綴られている。


 本書はソ連崩壊を崩壊10年前から予言し、言い当てた小室直樹氏(以下、師)の学問的アプローチの方法に学ぼうと言うものである。如何にして的確に当てる事が出来たのか、その答えは師の学問の真髄と「知が繋がる事による莫大なエネルギー」に見いだせるのかもしれないと私は考えさせられた。
 この本は、弓立社と言う出版社から出ている。あまり聞かないマイナーな出版元だが、消費者でもHPから書籍の在庫が確認できると言う変わった出版社なのだ。そして、出版年数は初版が1992年となっているが、(小室哲学とでも言うべき)小室学の完成までのプロセス、つまりは誰の影響を受け、どのような学問的アプローチを行っているのかが良く解る1冊である。
 序章に始まり、第3章までの章立てになっている。それぞれについて簡単に解説をしておく。序章では、現在(92年時点)小室学を学ぶ理由、再考する理由をまとめている。続く第1章では、ソビエト崩壊の預言が如何にして行われたのかと言う事について「構造‐機能分析」とマルキシズムを用いて説明している。特に、ここではアプローチの仕方について明快に書いているので「ソビエトの崩壊」などを読んでいない方でも理解できると思われる。そして、1章で見た様なアプローチを可能にした理由は、第2章において詳しく説明されることになる。ここでは、師がフルブライト留学を果たし、日米で学んだ学問分野別に解説がなされている。特に社会学をパーソンズに習い、「構造‐機能分析」を会得したことが大きいと考えられる。そして、師の最大の特徴ともいえる点が会得した事柄を自己流・アレンジを加え、自由自在に扱えるようにしていることである。本来なら、学問は自由自在に扱えるように自らの形を作る事が普通であるが、近年の日本ではあまり見られない事である。この点は2章で最も重要なことかもしれない。読者がそれに対して反省し、常に「考える」と言う事を意識してくれれば、この本を読んだ価値があると言えるのではないだろうか。そして、最終章である第3章では実際問題であるロッキード事件や日中韓の関係等を構造‐機能分析を用いて考えている。




本書の感想
 本書を読んで、「何故、師はここまで単純明快に物事を現す事が出来るのか」そして「どうして、このような結論に行きつくのか」と言った疑問が吹っ飛ぶようか思いをさせられた。師の書を読んでいただければわかるように、非常に解りやすいロジックになっている。そして、時に「え…何で?」と言うように疑問に思う説明や歴史的な解釈は本当に合っているのかといった疑問が頭の中で浮かぶ事があった。その疑問を吹き飛ばす理由をこの本の中に見た気がします。疑問に思うと言うより、自らの学問の浅さを痛感させられるほど師のロジックは完成されたものであるように思う。
 本書に出てくる、タルコット・パーソンズの構造‐機能分析と言う考え方の威力に驚かされる。社会学と言えば、かなり類推的なイメージが有り、物理学の実験と言った実証的な方法を用いることが難しく、理論だけで証明がなされていないかのように感じる。しかし、その方法論は大変理論的に感じるし、実証的な方法に負けないほどの説得力を帯びて切るように感じ取れる。
 そして、学問は枠を超えた所で初めて真の力を発揮するのではないかと思う。師の学んだ軌跡をたどれば、学問の結束した時の力がどれだけのエネルギーが持っているのかが伺い知れる。それは、現在の様な専門主義的な学問への(専門事だけ知っていれば良いという)姿勢が、如何に危険であり非効率的な事かが良く解る気がします。基本的な事から幅広い土台を形成することで、初めて専門的な学問の基礎を気付くことが出来、さらには応用がきくのである。
 この1冊に出会ったことの価値は、1つに「小室学の深さが理解できたこと」ともう1つが「学問のつながった瞬間の力の凄さ」に集約できると私は深く信じている、
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読録第7回 「天才の栄光と挫折 数学者列伝」 藤原正彦 著
 最近、読んだ書籍を貯めていた事もあって、更新回数が多い。
 時間が有る事は大変よろしい事であるが。しかし、いくら読んでも疲れない様な熱中できる本にお目にかかれることが少なくなっている。購入前にはキッチリと内容の吟味はしている筈なんだが...。




 本日の書評は、大ベストセラーになった『国家の品格』の著者・藤原正彦さんの著書をご紹介します。東大で数学を専攻し、現在はお茶の水女子大で教授としてアカデミックな世界でご活躍です。近年では、数学にとどまらず国語教育への問題提起をしており、「国家とは何ぞ」と言うような事にまで研究のすそ野を広げてらっしゃいます。


 本書は新潮社選書より発行されている『数学者列伝』を文庫化したものであり、以前にNHK教育の番組で「人間講座」として8回放送された内容にアンドリュー・ワイルズの章を加え加筆修正したものであるそうだ。
 藤原さんが数学者として、数学会の天才たちの足跡を辿るため自ら現地へと飛んだ。藤原さんにとって、登場する9人の数学者らは神のような存在であった。ここに出てこない偉大なる大数学者もいるが、皆すべて神化され、我々とはかけ離れた存在として扱われているように思っていたようだ。
 しかし、彼らの出生地や学び舎、研究所と言った場所へ足を運び、様々な資料やインタビューをする事によって今まで知りえなかった大数学者たちの素顔が浮き上がって来た。その中には、恋愛や失恋、そして死別と言う誰もが避けては通れない道を大数学者といえども味わっていると言う事が垣間見れた。
 そして、天才数学者の境地を見つけた。彼らは神では無い、一人の人間であると言う事実がそこにはあった。如何にして彼らは神化したのか。その境地とは何であろうか。著者は「この世にいて天国と地獄を行き来した彼らの悲喜交々の人生」を見たのである。すべては彼らの歩んだ道にある。それを辿るのが本書なのだ。彼ら大数学者の人生から我々は何を学ぶべきなのであろうか。






本書の感想
 私は数学が嫌いだ。否、数学の問題が解けていた中学生までは比較的好きであった。もっとも、この頃は地理や歴史と言った社会の方に興味はあったが…。いずれにせよ、中学までは数学が好きだったと言っても過言では無い。割り算が理解出来ず、塾へ通うようになり、そこで算数嫌いを克服したからこそ中学では数学が嫌いにならなかったとんだと今は思う。
 そう考えると、この本を読んで得た知識とそれを使って考えた結論のもつ(私の人生における)意味は大変有意義なものだったと思う。つまり、「数学と言うものは文学と一体」なのだ。この本に出てくる数学者の中の何人かは詩を作る能力が長けて居たり、文学にのめりこむ姿が映し出されている。それは数学は数式を駆使する学問であると同時に文字列としての美的センスをも要求するものである事を意味する。そして、その美は文学や哲学にも通じるところが有ると言う事だ。そう考えれば、数学を毛嫌いする必要なはい。数学は小説の文章と同じで読む人を感激させる力が有るのだから、数学は只の科学的根拠や計算式では無く、他者へと自分の気持ち(考え)を伝える言語と等しいのである。そう感じてならない。そう考えれば、高校数学がどれほど楽しかったことか。習っている定理に隠された歴史を知れば、どれだけの感動と喜びにあふれたことだろう。そう思えてきてならない。
 全ての学問はすべてに繋がっているのである。そして、学問の生みの親は哲学であるから、すべては哲学へと回帰できるのでしょうね。そう考えれば、数学や物理または複雑な学問ですら、自らが得意とする学問とのかかわりが出来、より深い関心を抱けることでしょう。
 私はこの『天才の栄光と挫折』という本を通して、数学を学びそれと同時に歴史と人間としての教訓を学んだと言えるのです。この教訓と感動を生かすも殺すも自分次第。この本に登場する天才は皆が幸せであったとは言えない。それぞれの人にそれぞれの人生が有る。その結末は神のみぞが知る。






ここで少しばかり、くだらない妄想をしてみました。
読みたければ、どうぞ。

 数学が嫌いな人間は、如何にして嫌いになるのか。その要因は様々だが、数学の定理を見ると実に美しいと感じる人間は数学を嫌いにならないのではないかと思う。数学的美のセンスをお持ちの方は、「数学は苦手なんだ」と口で言っているだけで、アレルギー反応は出ていないと言う事になる。しかし、xやyが出てくる式を見ただけで、「もう、駄目だ。」と言ってしまう人がいるだろう。これは、定理や方程式を拒絶しているのだから、数学嫌いと言える。虫を見て可愛いと言いつつ、「虫嫌いです。」と言う奴が居ないのは数学においての私の考察と同じである。ここで言っておくが、、眺める事とそれに挑む事は同じであると見てもらわないと困る。野球を見るのは良いけど、「するのは嫌」と言う輩は居る。これは別の部分に興味(タイガースが好きとか、ダルビッシュがカッコいい等)を持ち、そちらが優先的に考えられているだけなのだからだ。
 数学アレルギーは、理解出来ないから面白くない、故に嫌いになるのだ。誰も、数学の定理を見て、「なんて汚い定理なんだ!」と言う輩はいない。つまり、理解出来ないからアレルギーが出るのだ。心理的数学アレルギーとでも言うべきか、言わば「食わず嫌い」というようなものだ。これを克服するにはどうするか。それが「どれだけ美味しいのか」を知ることだ。つまり、それが可能にした事や利便性高さを考えれば良いのである。
読録第6回 「恋文の技術」 森見登美彦 著
わが青春を見事に先取りして、面白可笑しくなるように手を加えたとしか言えない様な出版物を多数発行し続ける若き天才作家・森見登美彦さん。
今日は、彼が3月の7日に出版した新刊の書評を書きます。



 森見登美彦さんの小説のほとんどは京都が舞台。そして、冴えない男子大学生が主人公と言う…。彼の作品は個性的でそれぞれを紹介する。
 デビュー作の『太陽の塔』~『四畳半神話大系』までは、モテない男子学生の苦悩とその怠惰的泥沼生活が面白可笑しく描き出されている。
 その後、少し小説の傾向が変わり『夜は短し歩けよ乙女』が出版される。この作品では従来のような男のどろっとした部分は一切なく、天然な女子大生ヒロインとそれに付きまとう(?)男子学生の純粋な恋愛を描く。むしろ、恋愛が成就するまでの過程が描き出されており、男子学生のくだらなくも面白い努力によって引き起こされる事件の数々か魅力的である。そして、デビュー作からず~っと京都の話である上に、毎作登場するキャラクターなども魅力的である。
 そして、『有頂天家族』では狸が主人公と言う一風変わった作品である。その中では、狸と天狗と人間と言う3者の様々な思惑が交差して織りなす狸・下鴨一家を巡る珍事が魅力的である。
 また、ホラー系統の作品にも挑戦しており、『きつねのはなし』と言う本が有る。ホラーと言うと山田悠介のの様な作品をイメージするかもしれない。しかし、森見さんの作品は現代にはやっているようなホラーには分類されない。私の読んだイメージとしては、芥川龍之介の『羅生門』に近い。つまり、ただ単なる恐怖と言うよりも、何処となく不思議で異様な空気が漂い神秘的(?)な世界観を見せつけられると言う事だ。
 小説の枠を超えたエッセイ的小説を書いている。これに該当するのが『美女と竹林』である。この作品では、森見さんが主人公であり彼の現実と妄想が入り混じった形である為、何処までが本当で独までは妄想なのかが分からない。一見するとあまり評価できないように見えるが、この点が彼を称賛するに値する点なのだ。つまり、彼の妄想は無限に広がりを見せ、普通では考えられないほどの話へと広げる事でファンタジー的な世界を作り上げるのだ。これは森見作品の共通点である。






 本書はポプラ社から出版されており、書簡体の作品である。大学院生である主人公・守田一郎が能登にある研究所へと飛ばされ、京都に居る知人に無数の手紙を送り続けるものである。この作品も他の作品同様に個性豊かなキャラクターが登場している。マシマロマン小松崎君や大塚緋沙子大王、恋文反面教師・森見登美彦…等など。
 また、この作品でも従来通り、森見さんの妄想が炸裂しており、「おっぱい」の話や研究ノートの奪い合いと言った他愛もないネタを一杯一杯まで活用している。おっぱいの話は、恋に悩み文面で主人公に相談しながら女性を振り向かせる手段を模索するマシマロマン。彼はおっぱいで悩んでいた。そして、主人公は友人のマシマロマンが思いを寄せる女性のおっぱいを文面から想像させられる。「これは失礼だ」として、主人公は激怒し日本国憲法を持ちだして自己の創造の自由に関して述べ、縁を切ろうとまでする。しかし結局は、親友のマシマロマンの為におっぱいに悩み、哲学者デカルトに習い「方法的おっぱい懐疑主義」を生み出した。京都へ一時帰京敷いている際、ゼミ室でおっぱいをプロジェクターで映しだし、「おっぱい万歳」と叫んでいるところを、森見さんや仲間やひそかに思いを寄せる伊吹さんに見られてしまう。その後、彼は破れかぶれで能登へと戻るのであった。また、大塚大王と言う面白ければ何でもやってしまう危険人物と研究ノートの奪い合いをし、敵の僕に屈服するのである。
 このようにして、主人公が相手にあてた手紙の内容だけを読み進めて行く本なのだ。つまり、主人公宛の手紙は一切出てこないのである。そこに森見さんは、読者の為に妄想の余地を残しているのだ。大変手の込んだ内容である。
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